鉄仙のショートショート

2012年に若年性パーキンソン病を発症。アマチュア作家。

幻日(げんじつ) 第16回

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 私は、清水寺を目指して、気の遠くなるほど続いた坂道を上っていた。清水寺に近づくにつれ観光客は増え、参拝を終えた観光客が前から笑顔で歩いてくる。学校の行事なのか、小さな子供たちが、私を追い抜いて行った。定年を迎えているだろう年配のおばさんたちも私を追い抜いていく。次々に人々が私を追い抜いて行った。心の推進力を失った私の足は、少しずつ重たくなり、歩幅も狭まっていた。
 私は膝に手をついて立ち止まった。『我遡時』は九時半を指している。文字盤は左右に反転しているので、実際の時間は三時半だ。あと少しで夕方だというのに、太陽はまだ真上で、嫌みったらしく輝いていた。暑さで汗も止まらなかった。一日中歩いていたので、腰も疲れていて、足の裏も痛かった。ペットボトルの抹茶も飲み干しており、のども渇いていた。私はうなだれて、地面だけを見つめていた。
 ――疲れた。もう限界だ。
「走るな!」女子中学生が、私の後ろで叫んでいた。
「置いてくぞ!」今度は、男子中学生が叫んだ。
 ――うるさい! うるさい! 黙れ!
「男子!」女子中学生らしい声がした。「清水寺の前で写真撮るんだからね!」
 ――清水寺?
 私は顔を上げた。
 少し先に開けた広場があり、すでに私は清水寺の敷地に足を踏み入れていたのだ。広場の奥には、石段があり、その植えには白地に朱色の柱が力強い、仁王門が構えていた。
 私は力を振り絞って歩いた。重たくなった足でしっかりと石段を上がって仁王門を抜けると、その先に気の遠くなるほどの石段が続いていた。歯を食いしばりながら上がると、目の前に随求堂が見え、そのまま道なりに歩くと、清水寺の本堂へと続く轟門が見えてきた。
 本殿の中は観光客で溢れかえっていた。清水の舞台がある方をちらりと見てから、反対側にある礼堂に上がり、奥にある仏像が見えるところまで進んだ。仏像が安置された内々陣は、ロウソクなど最低限の明かりしかなく暗くて見づらかった。
 中央の広い空間に千手観音が安置され、その両脇に千手観音の眷属である二十八部衆が並んでいた。この千手観音は本尊を写した前立仏であり、その後ろには、通常は非公開の千手観音と、その両脇には地蔵菩薩と毘沙門天が安置されている。 
 私は十一面千手観音に手を合わせ終えると、来た道を引き返って、人の溢れる清水の舞台に出た。
 私には以前から決めていたことがある。人生最後に見る景色は、美しいものにすることだ。私が選んだ美しいものは、妻だった。妻に看取られてこの世を去りたいと思っていた。しかし、妻はもういない。
 東寺で薬師如来と目が合うまで、私は迷っていた。
 ――終わらせよう。
 私は覚悟を決めた。
 清水の舞台の欄干まで進むと、あたり一面、緑が広がっていた。木々が生い茂り、遠くには山が見える。下をのぞくと左側には、学業成就、恋愛成就、延命長寿の御利益があると言われる音羽の滝が見えた。
 ――学業、恋愛、長寿。もう、私には関係ない。
 清水の舞台を囲む欄干に両手を置き、乗り越えるために力を入れた。
「ちょっと、何やってんのよ! 危ないでしょ!」聞こえるはずのない、若き日の妻の声がした。
 背中を引っ張られて後ろに倒れた私は、受け身も取れずに背中を強打した。背中を抜けて胸まで感じる鈍い痛みに悶絶する私の上に、一つの影が差し込んだ。
「大丈夫?」二十年前の姿をした妻が、私の顔をのぞきこんで手を伸ばしていた。
 ――これは幻か?
 右手を床についたまま、私は左手を伸ばして妻の手を取った。左うでには先程買った『我遡時』が巻かれていなかった。
 私は起き上がると、すぐにあたりを見渡した。清水の舞台であるのは間違いないが、少し様子が違って見える。人々の服装は時代遅れのデザインだった。紛れもなくここは、二十年前の京都だった。慌てて、私は自分の手のひらを見た。肌質は五十代のそれではなく、三十代の頃のものだった。
 ――過去に戻れたのか?
「ねぇ、大丈夫なの?」妻が心配そうな顔で言った。
 ――人生をやり直せるのか?。
 理屈は分からないが、今の私にとっては些細なことだった。
 二十年前と同じなら、今ここで、やらなければならないことがある。
 私は妻の前に向き直って、真剣な表情で見つめる。
「何、もしかして怒ってんの?」妻は眉間にしわを寄せて不機嫌だ。
 私は目を閉じて、一度、深呼吸をする。意を決して、口を開く。
「必ず幸せにするから、俺と結婚してください!」
 観光客で溢れている清水の舞台が、時が止まったように静まった。
 妻の顔から表情が消え、ゆっくりと目が丸く見開かれると、見開いた目から涙がポロポロとこぼれ始めた。妻は、そのまま手で顔を覆ってうつむきながら泣き始めてしまった。
「えっ? ダメなの? 返事は? あれ、不味かった?」私はうろたえてしまった。
 妻は泣きながら顔を上げる。
「バカじゃないの。いきなり飛び降りようとするし、心配したんだから」
「ごめん。なんか色々あって」
「君みたいなやつ、放っておけるわけるないでしょ」
「それって、もしかして……」
「決まっているでしょ。バカ!」若き日の妻は、私の胸に飛び込んできた。
 拍手が私たちを包み込んだ。見知らぬ人たちから祝福され、私は少し照れた。
 これから二十年。長いようで短い人生が、また始まるのだ。

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