鉄仙のショートショート

2012年に若年性パーキンソン病を発症。アマチュア作家。

幻日(げんじつ) 第11回

幻日(げんじつ) 第10回はこちら

 

 二分ほど北へ歩いて、細長いビルの前についた。一階の入り口の前にはいくつも着物が飾られている。私たちは着物のレンタル店にやってきた。
「レンタル着物?」妻は戸惑っている。
「うん。着物に着替えよう」私は言った。
「レンタルって、高いんじゃないの?」
「さっき調べたけど、三千円ぐらいだって」
「三千円……、安い浴衣なら一つは買える値段だね」妻は遠い目をした。
「俺がお金を出すから、着てみてよ」 
「いい、遠慮する」
 妻は、口ではハッキリと断っていたが、店先に飾られた頭のない着物姿のマネキンの前に立って、店のガラス窓に映った自分の顔から、着物を着たときの自分の姿を想像しているようだった。
「一生のお願いだからさ」私は合わせた手を上にあげて、頭を下げた。
「……ちょっとだけなら」小さな声で、妻は言った。
 私は、妻の背中を押して店内へと入った。中央には色鮮やかで美しい着物が吊され、左の壁一面に広がる棚には、畳まれた着物がぎっしりと積まれていた。
「……きれい」着物を手に取り、妻は見とれていた。
 妻の隣で、私も着物に見とれていた。普段の生活で、これほどじっくり着物を見る機会がなかったので気にも止めていなかったが、和柄と呼ばれるデザインの美しさに感動していた。桜や牡丹のような花、鶴や蝶のような鳥や虫を取り入れたデザインは、自然が豊かで身近だった日本だからこそ取り入れられたものなのだろう。着物のデザインそのものが、日本の歴史や文化を表していると考えると、着物に囲まれているこの状態は、日本文化に囲まれた状態だと言える。彼女の機嫌を取るために逃げ込んできた店だったが、これは貴重な体験ができたのではないだろうか。
「おいでやす」着物を着た女性店員が、妻の横に立った。「そちらは四千九百八十円のセットになります」
「三千円じゃないんですか?」私は驚いた。ネットで調べた値段より二千円も高かったからだ。 
「二千九百八十円のセットはこちらの着物になります」女性店員は右手を上げて奥の着物を差していた。
 二千九百八十円の着物は、四千九百八十円の着物と比べ、デザインがシンプルでおとなしいものばかりだった。
「うーん……」妻は着物を見比べて真剣に迷っている。二千円の差について考えているようだ。
「せっかくなんだし、こっちの方から選ぼうよ」私は約五千円のレンタル着物を指差した。
「いいの?」申し訳なさそうに妻は言った。 
「プライスレスって知ってる?」得意げに、私は言った。
「価値がない?」妻は顔を曇らせた。
「違う、違う」私は慌てた。「プライスがない、という意味で、お金で買えないとか、価値があるという意味」
「知ってる。ちょっと、からかっただけ」妻は不敵な笑みを浮かべた。
「もう、やめてよ。焦ったじゃん」私は胸をなでおろした。
「だって、さっき変なこと言ったから」妻は口をとがらせた。
「ごめん。もう、ふざけません」私は顔の前で手を合わせて謝った。
「違うの。さっき、怒ったのは他の人がいたから」
「え? どういうこと?」
「みんな真剣に綺麗になろうとして、あそこに来ているんだよ? ああいうことは思っても言っちゃダメ。君はいつも一言が多いよ」
「ごめん。あれは、美人の定義は人それぞれなのに、誰でも美人になれるっていうのが、おかしいって思ってさ」
「ほら、そういうとこ」妻は、私を指差してにらむつけた。
「はい、気をつけます」私は、妻に敬礼した。
 妻は着物を持って、女性店員のいる方に向き直った。
「すみませーん。これでお願いしまーす」妻はいつもの明るい声で言った。
 私を叱りつけながらも、しっかりと妻は着物を選んでいたようだ。
「で? 君は選んだの?」妻は振り返って、私に言った。
「俺も着るの?」
「もちろん、連帯責任でしょ?」
「それを言うなら、運命共同体じゃない?」
「どっちでもいいから、早く選びなよ」
「こちらへどうぞ」女性店員さんが妻を呼んだ。
「ここのお金、私も半分出すから」妻は口に手を添えて、私の耳元で小さく言うと、着付けのために店の奥へと行ってしまった。
 私は慌てて着物を選ぶと、妻を追って試着室へと向かった。
 私が着物に着替えて戻ってから十分ほどで、白地に紫色の牡丹と藤の柄の着物を着た妻が戻ってきた。花火大会で見た浴衣姿とは違う、凜とした力強さと艶やかさがあった。老舗料亭の女将さんのようだ。
「どう?」妻は自信ありげに両うでを開いて、牡丹が描かれた袖を揺らした。
「すっごい、綺麗。方向性が変わったって感じ。いつもは可愛くて、今は色っぽい。いや、色っぽさの中に可愛さが混在しているというか、なんか上手く言えないけど、俺、幸せだわ」私は素直に感想を言った。
 妻はきょとんとして、黙っている。
「あっ、もしかして、また余計なこと言った?」私は心配になった。
「……相変わらず、感想が長いなぁと思ってね」妻は目を細めて微笑んだ。「でも、そういう感想は大歓迎かな」

幻日(げんじつ) 第12回