鉄仙のショートショート

2012年に若年性パーキンソン病を発症。アマチュア作家。

幻日(げんじつ) 第6回

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 粟餅所・澤屋を出て信号を渡り、私は北野天満宮の一の鳥居の前に立った。重厚さを感じさせる石でできた『一の鳥居』の前で一礼すると、右手前に赤みがかった松が目に入った。北野天満宮の御神木である影向松(ようごうのまつ)だ。

「おっ、これが影向松か」妻が言った。
「ヨオゴオの待つ?」聞き慣れない響きに、私は戸惑った。
「影向松。知らないの? 北野天満宮の七不思議だよ」得意げに妻は語り出した。「影向松、筋違いの本殿、星欠けの三光門、大黒天の灯籠、唯一の立ち牛、裏の社、天狗山の全部で七つ!」
 相変わらず、妻の左手にはガイドブックが握られている。
「よく分からないけど、これがその一つなの?」私は松を見上げた。
「うん」妻は笑顔で言った。「私もよく分からないけど、そうらしいよ」

 影向松には、初雪が降ると天神様が降臨されて歌を詠むという伝説がある。
 当時の私は七不思議のようなものしか興味がなく、由来や歴史には全く関心がなかった。寺社仏閣に興味を持つようになったのも、ここ数年のことで、二十年前の私が京都へ来たのも、妻、当時はまだ結婚していなかったので正確には彼女となるが、その彼女がどうしても行きたいというので、ついてきただけだった。

「牛だ。牛がいる」妻は、参道の横に置かれた小さな社に駆け寄った。「ここの牛はみんな座っているんだけど、神社に描かれた牛だけは立っているんだって」
 社の中には赤い前掛けをつけた光沢のある黒い牛の像が飾られており、妻は牛の像を愛しそうに見つめながら、手のひらで優しくなでていた。
「もしかして、それも七不思議?」妻に寄り添いながら、私は尋ねた。
「七不思議は立っている牛で、これは七不思議の一部みたいなもん」
「どんな不思議なの?」
「さあ、よく分からない」
「分かんないの?」
「分からないから、謎なんだよ」
「謎解きのヒントとかないの?」
「君は、何でも難しく考え過ぎなんだよ」妻は人差し指を立てて、得意げに言った。「物事はいたってシンプルさ。謎は分からないから謎なのさ」
 ――可愛い。メチャクチャ可愛い。
 私は、妻が見せるこういう仕草に弱かった。
 呆然とする私を置いて、妻は後ろ手を組んで歩いて行く。
「おーい。置いてっちゃうぞ!」口に手を添えて、大きな声で妻が私を呼んだ。
 私は少し照れながらも右手を力なく挙げて、急ぎ足で妻を追いかけた。
 縁を金色で飾った黒く大きな楼門の前で、妻は立ち止まって門を見上げていた。
「どうしたの?」私は、妻のそばに寄って声をかけた。
「写真で見たことあったけど、思っていたより大きいな、と思ってね」
「写真だと小さく見えるからね」
「自分の目で見ないと分からないもんだね」妻は一人で感心している。

 二十年前の私は、まだ子供だった。物事の一面だけを見て、全てを理解した気になっていた。この時の旅行も有名な場所に立ち寄ることが目的になっていて、スタンプラリーのように観光名所を写真に収めることで満足してしまっていた。
 二十年ぶりに楼門の前に立ち、私は顔を上げた。
 当時は気づかなかったが、よく見ると、黒いと思っていた色は茶褐色であり、門の中間の高さに欄干があり、二階建ての建物のように見える。屋根を支える梁の一部が白く塗られているおかげで、縁を飾る金色が嫌みに見えないようになっていた。
「絶妙なバランスだよな……」私は、一人で感心した。
 楼門をくぐると、右手前に石でできた牛の像と目が合った。この目の赤さも、あの頃と何も変わらなかった。

「おっ、今度は赤い目の牛だ」妻は赤い目の牛の像に駆け寄った。
 先程と違い、妻は牛の頭頂部ばかりをなでていた。近くに生える木の枝が牛の像にかかって邪魔なため、牛の体をなでるのは諦めたのだ。
 私は手前に手水舎を見つけ、体を清め始めた。
 手水舎の前で一礼をする。右手でひしゃくを持って水をくみ、左手に水をかけて清める。ひしゃくを左手に持ち替えて、今度は右手を清める。再び、ひしゃく右手で持ち、左手に水を少し溜めて口を清めて、口がついた左手を水で清めたあとは、ひしゃくを垂直に立てて持ち手に水を流して清め、ひしゃくをうつ伏せにして戻す。
 一つの儀式ではあるが、その洗練された様式に私は感心した。体だけでなく、心まで洗われた気がする。
 手水舎で清めたあと、私は夏の日差しから逃げるため、すぐそばの絵馬所の中の長椅子に腰を下ろして涼んだ。
 妻は私が絵馬所にいることを確認すると、そのまま屋根の下に飾られた三十六歌仙の絵を一枚一枚確かめるように眺め出した。
 私は座りながら妻を眺めた。遠目で見る妻は、普段のイメージとは違い、小さく、細く、弱々しいものに見えて、とても愛おしく感じた。

 私が遠い二十年前の追憶を楽しんでいると、後ろの方から高く騒がしい声が聞こえてきた。修学旅行の団体だ。これ以上、人が増える前に、お参りをしておきたかったので、私は慌てて絵馬所を出て三光門(さんこうもん)に向かった。

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