鉄仙のショートショート

2012年に若年性パーキンソン病を発症。アマチュア作家。

幻日(げんじつ) 第4回

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 出口に向かって歩き出した私の背中を、誰かが引っ張った。振り返ると、死んだはずの若かりし頃の姿の妻が眉間にしわを寄せて立っていた。
「ちょっと。まだ、ツクバイ見てないでしょ」妻は、戸惑う私を気にもとめずに、厳しい目つきでにらみつけていた。
 ツクバイとは、茶室に併設された庭園に設置されるもので、茶室に入る前に手を清めるために置かれた手水鉢の一種である。
 私は、戸惑いながらも妻の後ろをついて石庭の反対側に回った。裏庭は地面をところどころ苔で覆いながらも、背の低い木々が肩を並べるように生い茂っていた。あたりは日陰で少し暗かったが、涼しく居心地の良い場所だった。
 ツクバイと呼ばれる円筒形の物の前に腰を下ろすと、のぞき込むように視線を落とした。
 ここ龍安寺のツクバイは、一見すると江戸時代の通貨である寛永通宝のようにも見えるもので、円筒形の上面の中心には四角い穴が空いており、上・右・下・左の順に、五・隹・疋・矢の一字が刻まれている。
「これはね」妻が得意げに語り出した。「中心の四角を口に見立てて他の字と組み合わせると、吾、唯、足、知となって、吾れ唯だ足るを知ると読むことができるの。足るを知るものは貧しくても豊かで、足るを知らないものは豊かでも貧しいという仏教の教えをあらわしているのよ」
 妻の右手には、旅行のガイドブックが握られており、白く細い人差し指がページの間に挟まっていた。
「……つまり、どういうこと?」私は、申し訳なさそうに妻へ尋ねた。
「さあ、分かんない」妻は、いつもの明るい笑顔で元気に答えた。
「分かんない。って何だよ」ツクバイを見下ろしながら、私は微笑んだ。
「だって、それ以上、書いていないんだもん」妻は、ふくれっ面を見せた。
「本に頼るからダメなんだよ」私は、スマホを取り出した。「こういうときは、ネットに頼らないと」
 ネット検索すると、書いている人によって解釈が違うため、答えを一つに絞ることはできなかった。
「あれ? もっと分からなくなってきた」私はスマホを置いた。
「答えは人それぞれってことでしょ?」
「それはおかしいよ」私は眉を寄せた。「答えは一つでないと」
「頭、固いなぁ」妻は立ち上がって、私を見下ろした。「君は、何にも分かっていないよ」
「自分は分かったって言うの?」私は妻を見上げて言った。
「私は、分からないのが、分かっているよ」妻は得意げに私へ言った。

 二十年経った今、私はツクバイに込められた意味が分かったような気がした。
 『足るを知る』
 妻と一緒になって、すでに私は幸せだったのだ。なのに私は、妻と幸せに暮らすためだと言って、妻との時間を削って仕事に明け暮れていた。
 ――今頃、気づいても遅いだろ。
 肩を落としながら建物を出ると、庭園内をまわる順路を示した看板が目に入ったが、私はそれを無視して、まっすぐ前へと進む。草木で隠されるように囲まれた細い道を進んで、弧を描く石橋を渡ると、鏡容池に浮かぶ弁天島に足を踏み入れた。
 島の入り口には朱色の鳥居があり、先にはもう一つ朱色の鳥居と小さな社(やしろ)が建っていた。鳥居には縦長の額が飾られており、横に開運、縦に大辨財尊天と書かれており、社の中には開運と書かれた赤い大きな提灯がぶらさげられていた。

「大辨財尊天? ああ、弁天様か」祀られているのが弁財天だと分かると、妻は手を合わせ出した。
 龍安寺は寺院であるが、七福神の一柱(はしら)である弁財天が祀られている。仏様を祀るのが寺院であり、神様を祀るのが神社なので、とても不思議な光景なのだが、昔の日本には神仏習合の時代があったため、これはそのなごりなのだろう。
「弁天様って、七福神の一人だよね?」私は、妻に尋ねた。
「一人じゃなく、一柱ね」妻は人差し指を一本立てて言った。「ビールのが恵比寿様で、お腹の出ているのが布袋様。あとは……誰だっけ?」
「弁天、恵比寿、布袋、大黒天、毘沙門天……」私は指を折って数えた。「あと二人が出てこないな」
「だから、二人でなく、二柱!」妻は、可愛らしい顔を台無しにして、いらだった。

 一般的な七福神として数えられるのは、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七柱である。その中で日本由来の神様は恵比寿だけであり、大黒天、毘沙門天、弁財天はヒンドゥー教、福禄寿、寿老人は道教、布袋は仏教由来の神様である。意外に知られていないが、七福神は多国籍な神様なのだ。
 日本が他国の文化を受け入れて吸収し、新しいものへと進化させてきた国だとはいえ、異国の神様を一つのグループとしてまとめてしてしまうなんて、なんとも大胆なことをしたものだ。
 異なるものを一緒にするといえば、結婚も似たようなものかもしれない。
 長年、異なる考え方、生活習慣で暮らしてきた人たちが、ある日を境に同じ住居で生活を共にするのだ。上手く行くことの方が不思議である。結婚制度のかかえる問題は経済的なものもあるが、生き方が多様になり過ぎて、同じ生き方をしている人を見つけづらくなったこともあるのではないか。今の時代、プライベートで一緒にいたい人がいるだけで、幸せなのかもしれない。そんなことを考えながらも、目の前に立つ若く可愛らしい妻の幻に、私は微笑んでいた。

「ところで、何をお祈りしたの?」私は、妻に尋ねた。
「……内緒」妻はうつむきながらつぶやいた。
「内緒って言っても、一つしかないじゃん。弁財天って、金運と芸能の神様でしょ?」
「……縁結びもあるよ」妻は、上目づかいで照れながら答えた。
「縁結び?」
「そういえば、カップルで弁天様にお祈りすると、弁天様がヤキモチ焼いて別れさすんだって」思い出したかのように妻が言った。
「マジで?」信心深い訳ではないが、少しだけ私は心配になった。
「神様がヤキモチって言うのは信じられないけど、悪い縁を切って良い縁と結んでくれるというのなら分かるかな」
「大丈夫だよね?」
「何が?」とぼけた様子で妻が言った。
「俺たちのことだよ……」
「どうだろうね? 神のみぞ知るなんじゃない?」妻は不敵な笑みを浮かべると、先程通ってきた石橋を一人で渡り出した。
「待ってよ! どういうこと?」私は、妻を追いかけながら言った。
「さあ、どういうことでしょう?」妻は目を細めて微笑んだ。

 私は、ひとときの追憶に笑みを浮かべながら石橋を渡り順路に戻った。優しい木漏れ日と爽やかな風を感じながら、思い出の道をなぞるように歩き出した。

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