鉄仙のショートショート

2012年に若年性パーキンソン病を発症。アマチュア作家。

小説とは何かについて。

「人の心はもろいからね。ほんの些細なことでも壊れてしまうんだよ」明神は、皿の上のスパゲッティーをくるくると器用にフォークで巻き取って口へと運んだ。

「宮田さんのことですか?」大野は、明神の顔をのぞき込んだ。

「彼もそうだけど、君も……」明神は、力なく微笑んだ。「もちろん、私もだ」

 宮田が飛び降りたと聞いて、大野は慌てて病院に駆けつけた。

 手術室の前には、上司の田上と同僚の佐々木が落ち着かない様子で立っていた。近づくと、少し離れたベンチに座っている明神が目に入り、挨拶するために近づいた。少し話してから明神の提案で病院内にある喫茶店に場所を移すことになった。

 大野は、宮田の上司という立場のため駆けつけなくてはならなかったが、いざ手術室の前に立つと、自殺を止められなかった自分の無力さに押しつぶされそうで気を失いそうだった。それだけに明神の提案に救われたと思った。

「相談は受けていました」大野はうつむいて、アイスコーヒーのグラスの中に浮かぶ氷を見つめていた。「失敗は誰にでもあるから気にするなって……言ったんですよ。なのに……なんで……」

「なぜ失敗したのか聞いたかい?」

「いえ、忙しかったので……」

「自分の失敗談とかも話さなかったんだね?」

「はい」

「それじゃあ、ダメだよ」明神は、肘をテーブルにつけて手を組むと、大野の目を見つめる。「私が小説を書き続ける理由は、何だと思う?」

「先生の場合、お金……ではないですよね?」大野は眉をひそめた。「出版社の依頼を断れない……ですか?」

「それもあるけど」明神は、一呼吸おいて口を開く。「一番の理由は、伝えたいことがあるからなんだ」

「何をですか?」

「恋愛はいいものだ、とか。家族を大切にしなさい、とか」

「そんなの当たり前じゃないですか?」

「そうだね」明神は微笑んだ。「でも、その当たり前ができないんだよ」

「そうだとしても、小説で書く必要はあるのですか?」大野は眉をひそめながら、首をかしげた。「直接言えばいいのではないでしょうか?」

「大野くん。例えば、道ですれ違った知らない人から『この道の先は危険だから戻った方がいいですよ』と言われて、すぐに道を引き返すかい?」

 大野は少し考え込んでから言った。「そうですね。たぶん、少し先まで歩いて自分の目で確かめますね」

「じゃあ、君の奥さんが同じことを言ったらどうする?」

「すぐに引き返します」大野は即答した。

「人が、他人のアドバイスを聞くかどうかは、その相手を信頼しているかどうかなんだよ。だからね、見ず知らずの私が『恋愛は素晴らしい!』と言っても、誰も聞きはしないんだ。でもね。小説で恋愛の素晴らしさを伝えれば、読者は自分のことのように感じて、『恋愛は素晴らしい!』と思ってくれる」

 大野はうつむいた。「僕は、彼に信頼されていなかったんですね……」

「信頼を勝ち取るのは簡単なことじゃないさ」明神は、スマホをのぞき込んだ。「でもね、まだやり直すチャンスがあるみたいだよ?」

 大野が顔を上げると、目の前に差し出された明神のスマホに、宮田が意識を取り戻したというメッセージが表示されていた。

「間違いに気づけば、やり直せばいい」明神は微笑んだ。「相談を受けるということは、その人から信頼されているってことなんだよ。その信頼を裏切るのは、人のすることではない。だから、相談を受けたら、親身になって一緒に考えるべきだね。それが人の情っていうものさ」

「はい」大野は、頬に涙を伝わせながら微笑んだ。