鉄仙のショートショート

札幌在住会社員のショートショート置き場です。

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』40

「佐伯さんは進行が遅いようなので、そんなに心配する必要ないから。あれやっちゃダメとかないから好きなことバンバンやった方がいいと思うよ」

 かかりつけ医からは毎月こんなことを言われる。

 確かに俺の症状は全身の痛み以外大したことない。手も震えないし、外見も健康そのものだ。病気を宣告されてからというもの生活習慣を変えた。食事を見直して運動もするようになった。病人なのに以前より健康になったぐらいだ。

 最近では、同じ病気の人から、「どうしてそんなに前向きなのか?」、「症状の進行を遅らせている理由はなんだと思いますか?」と聞かれるようになった。

 パーキンソン病はドーパミンという脳の中の物質が減ると発症する。このドーパミンという物質は外部からの刺激で増やすことができ、趣味を楽しんだり、映画を見て感動したり、恋愛するなど興奮状態になることで増やすことができるので、そういう状態に身を置けば薬に頼らなくても症状を抑えることができる。俺の場合、たまたま、ドーパミンが増える状況にいるから、症状も抑えられているのだ。

 そして、今まさに、そういう状態になっている。

 俺の右横から、ほのかに香る石鹸の香りとやや鼻声の明るい声が、俺の脳を刺激してくる。

 時間は定時を過ぎた金曜の午後八時。総務部の人はみんな帰り、今残っているのは、俺と体を密着させ、俺の机に広げられた領収書の束を見ている岩井主任だけだ。右手で領収書をめくるたびに肘が岩井主任の胸に触れてしまいそうでドキドキする。触れたいが、触れたら激怒されそうでというスリルもあるが、こういうシチュエーションに慣れていないとうのもある。

 こういう状況になったのは、あの後、すぐに岩井主任に真犯人探しがバレてしまい、一緒にアリバイ崩しをすることになったからだ。

「これおかしくない? どうして駅から離れた温泉街にホテルを取っているの?」

「駅の近くのホテルが空いていなかったんじゃないですか?」

「旅費規程をオーバーしている宿泊代は自腹で払っているけど、この旅館、有名なところだから、普通はそもそも予約一杯で宿泊自体できないはずだよ」

「岩井主任は温泉好きなだけあって詳しいですね」

「まあね。前にここ予約しようとして取れなかったからね」

「お一人様だから予約できたんじゃないですか?」

「いや、私もお一人様だから」

「そうなんですか? 彼氏と行かないんですか?」

「いたら金曜の夜にこんなことしていないよ」

「そりゃそうですね」

 静かない社内で俺と岩井主任は笑い声が響いた。

「なんなら、今度一緒に温泉行く? 真犯人見つけたお祝いとかで」

「温泉ですか。俺、苦手なんですよね。温泉というか、そもそも、お風呂に浸かると疲れません?」

「そう? 私は疲れないけどな。定山渓温泉行ったことある? あそこなら日帰りでも行けるよ」

「ええ、いいですよ。面倒くさいですし。それより、これどう思います? 月に一回だけ出張が金曜で日曜に帰ってきているんですけど、これだと旅行に行くために出張しているように見えません?」

「そうだね」

「えっ? なんか急に反応薄くなってないですか?」

「別に」

 岩井主任の態度が急に不機嫌になった。彼氏がいないということを再認識して落ち込んだのだろうか。それとも、金曜の夜にこんなことをしていることが虚しくなったのだろうか。

「そうだ。もうこんな時間だし、お腹減ったじゃないですか? これから夜食でも取りますか?」

「いい。もう帰るから」

 そう言って席を立つと岩井主任はそのまま総務部を出て行ってしまった。俺は失言が多いので、また何か彼女を怒らすことを言ってしまったのかもしれない。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様です」

 独りになった俺は、そのまま領収書を一時間ほど調べたが、結局何の収穫もないまま帰宅することになった。

 

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』41へと続く