鉄仙のショートショート

札幌在住会社員のショートショート置き場です。

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』35

 村山さんと付き合うようになってから一か月後、俺は二月十四日のバレンタインデーを迎えていた。早朝出勤して仕事を定時までに終わらせると、そのまま村山さんのマンションへと向かった。約束していたわけではなかったが、サプライズとして、買ったチョコレートケーキを持って合鍵で村山さんの部屋のドアを開けた。

 短い廊下を抜けて入った明かりのついたリビングには、村山さんはいなかった。外出しているのかもしれないと思った俺はリビングで待つことにして、ケーキをテーブルに置くと、コートを脱いでソファーに寄りかかる。数分待ったが、すぐに帰ってこないようだったので、テレビを見て時間を潰すため、リモコンに腕を伸ばす。隣の部屋から、ガタンっという音がした。隣は寝室だ。部屋にいないと思っていた村山さんは、寝室で片付けものでもしているだろうか。俺はソファーから重い腰を上げて寝室に向かうと驚かせないよう静かにドアを開けた。

 俺の視界に揺れ動く大きな肌色の背中が入ってきた。たくましく鍛え上げられたその背中は、村山さんのものではなく、知らない男のものだった。目線をおろすと、長い髪を乱した女が細く長い脚で四つん這いになって声をかみ殺していた。男が腰を激しく女の尻に打ち付けるたびに部屋中に渇いた音が響いていた。

 目の前で繰り広げられている光景を見て、俺は血の気が引くのを感じながら、ただただ立ちすくむしかなかった。

 数分後か、十数分後か、分からないが、女が俺の視線に気がついて、俺の方を向いた。目が合ったのは村山さんだった。村山さんは最初こそ驚いた表情を見せたが、すぐに恍惚の表情を浮かべ快楽に身をゆだねることに専念し始めた。男は腰を振るのに夢中のようで俺には一切気づかず、女は声を押し殺すのを諦めたのか、大きな声で喘ぎ始めた。

 俺はそのまま黙って寝室を出ると、リビングの置いていたコートを羽織り、テーブルの上の白いケーキの箱を持つと、女の部屋を後にした。

 寒空の下、白い息を吐きながらバス停まで向かう途中、夜空の星がいつもよりハッキリ見えることに気がついた。冬は空気が澄んでいるから遠い星も近くに感じることができるのかもしれない。遠くの星はあんなに輝いていて美しいが、俺の近くにある星はいつもイミテーションだ。

「病人の俺に彼女ができるわけないんだよ」

 強がりなのか、俺は独り言をつぶやいていた。

 期待するから絶望してしまう。健康な人間だって幸せになれない世の中で、病人の俺がいくら努力したって幸せになれるわけがないんだ。

 その日、俺は人を信じる心を失った。そして、楽になった。

 

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』36へ続く