鉄仙のショートショート

札幌在住会社員のショートショート置き場です。

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』29

 鏡の前に立つ自分は別人のようだった。整髪料で固めた寝癖のない頭、整えられた眉、短く切り揃えられた爪。専門店で買った上質のワイシャツに結ばれたブランドネクタイと袖から覗くお洒落なカフリンクス。ネクタイの中心で光るタイバーは、全体の印象を引き締め、腕を伸ばしたときにチラリと見えるカフリンクスは、見る人に自信と余裕を感じさせる。

 仕事初めで出社すると、まわりの反応はわかりやすいほど良かった。 

 女のことは女が一番知っている。村山さんのアドバイスは的確で、格好を村山さんのアドバイス通りにしただけで好感度が分かりやすいほど上がった。鈴原さんは、相変わらず俺のことを避けているようだが、総務部の他の女性の反応は良かった。

 庶務課の丸山さんからは、「あれ、もしかして彼女できたの?」と勘のいいことを言われ、営業部の後輩である若林からは、「どうしたんですか? 年末ジャンボ当たったんですか?」と見当違いのことを言われた。

 どちらにせよ、反応があったこと自体は嬉しかった。

 病気になってから約一年。自暴自棄になって、うつむきながら過ごしてきた俺が、朝から服装を褒められただけで前向きな人間へと生まれ変わって行くのを自分でも感じていた。

 

 毎日、会社に行くのが楽しくなってから四日後の金曜日の朝。寝る時間を削って土曜日のデートプランを練ったせいで、俺は朝から眠たくて仕方がなかった。右手で口を押さえて大きなあくびをしながら営業部のドアを開けると、いつもは静かな営業部が右往左往と大騒ぎだった。

「何やっている!? これから会議だぞ、お前も早く来い!」

  営業一課の佐渡課長が俺の肩を叩いて営業部を出て行った。

「会議?」

 俺は意味も分からず、そのまま自分の席に着いた。隣の若林はいつになく真剣な顔で慌てながらメールを打っている。

「若林君。何かあったの?」 

「先輩、メール見ていないんですか?」

「メール?」

 俺はズボンのポケットにしまっていたスマホを見た。スマホには全社員宛てにメールが入っていた。着信時間は俺が電車からバスへと乗換していた時間だ。バスの中は混んでおりスマホを確認する余裕もなかったので、俺は全く気付かなかった。

 メールの内容は、今朝の八時五十分に緊急会議を行うというものだった。 

「会議の内容は?」

「佐伯先輩、知らないんですか!? 一体、今まで何やっていたんですか!?」

 若林はメールを打つ手を止めて、苛立った表情で俺を睨みつけてきた。

 知らないから聞いたのに、「知らないんですか?」という返事で返してくることを、俺は好きではない。この非生産的なやりとりに何の意味があるのだろうか。今度、若林と飲みに行ったとき、一つ注意しておこう。

「えっ? いや、ごめん。ちょっと教えてくれない?」

「今、忙しいんで他の人に聞いてください」

 ……あれ、なんだこれ? 俺が知らなかったことを責める時間はあったのに、教えてくれる時間はないのか。やっぱり若林には優先順位と時間の使い方について一度じっくり教えてあげなければならないな。

 若林に聞くのを諦めて周りを見渡すと、ちょうど営業部の入り口から総務部の岩井主任が急ぎ足で入ってきたのが目に入った。営業部のコピー機を借りに来たようで、大量の紙をコピーしていた。

「岩井主任。おはようございます」

「ん? 佐伯さんか。おはよう」

 営業部のみんなが慌てているなか、岩井主任はいつもと同じように落ち着いている。男は度胸、女は愛嬌と言うが、岩井主任は相変わらず愛嬌がない。しかし、度胸はその辺の男よりあるため、男の俺でも頼りにしてしまう。毎日変わる髪形は、今日はポニーテールの日だったらしく似合っていて、いつもよりも三割増しで可愛いらしい。

「なんか慌ただしいけど、何があったか知っています?」

 

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』30へ続く