鉄仙のショートショート

札幌在住会社員のショートショート置き場です。

文フリ用連載『この心臓が動く限り、俺は諦めない』03

 午前の仕事が終わり、俺は高校の同級生がやっている自動車整備工場に来ていた。住宅街にある整備工場はプレハブを継ぎ足したような安い作りだったが、腕前は一流で、車の調子が悪くなると、いつもここで見てもらっていた。

「飯、食べたか?」

 真っ黒に日焼けした男が事務室のソファーで待っていた俺の前に座った。この男が同級生の宮下で、この自動車整備工場の社長でもある。

「ああ、そうか。もう昼か。まだ食ってないわ」

「何か取るか?」

 宮下が俺の前に寿司と蕎麦、ラーメンの宅配のチラシを並べ出した。

「いいよ。腹減ってないし。それに奢ってもらうのも気が引けるしさ」

 表向き遠慮はしておいたが、俺はすでにラーメン屋のチラシに大きく載っているチャーシューメンに目をつけていた。俺の決意は固い。絶対、ここは塩チャーシューだ。

「はあ? 誰が奢るって言った?」

「えっ? 奢ってくれないの?」

 まさかまさかの事態だ。この流れで奢らないとかあり得ないだろう。

「お前な。もう少し自分を大事にしろよ?」

 いやいや、俺の体を心配してくれるのなら、まずはラーメン奢って、俺の胃袋を満たせよ。話はそれからだろ。

「大げさだな」

 冷静に装ってはみたが、俺は心の中で「ラーメン! ラーメン!」と叫んでいた。というか、もうラーメンしか考えられない。

「それよりさ。最近どうなの?」

 ここにきて急に宮下が前のめりになって小声で話しかけてきた。

「どうって、何が?」

「声、大きいよ。何がって、決まっているんだろ。女だよ。女」

 なるほど。確かに、この手の話題はまずい。だだでさえ、この狭い事務所だ。それも家族経営。先程から事務をやっている宮下の奥さんの視線も感じる。こうやって無駄話をしていること自体が許されないことなのだろう。

「残業ばっかでそんな時間ないな」

 自分で言ってみたものの。思い返せば、ここ数年、デートどころか、遊んでもいない。夜十時まで残業して、風呂入って、飯食って、翌日一時に寝る。……やばい。俺の人生分かりやすいほど、つまらない。

「もしかして最近、寝ていないのか?」

「彼女いないんだぜ。当たり前だろ」

「そうじゃねーよ。睡眠時間だよ。睡眠時間! お前ちゃんと寝ているのか?」

「ああ、そっちね。少なくとも五時間は寝ているかな」

「五時間!? お前、それ絶対、足りないって」

 宮下が大きな声をあげて驚いた。 

「社長。点検終わりました」

 青いツナギを着た茶髪の若い男が事務所に入ってきて、宮下に点検内容を書いた紙を見せて専門用語を並べている。

「おおっ、分かった。ありがとな。昼休憩に入ってくれ」

 ツナギの男は宮下に軽く頭を下げてから、そのまま事務所の奥に入って行った。

「宮下、俺の車、どうだった?」

「うーん、それがさ。どこにも問題ないんだよ」

 宮下は先程ツナギの男からもらった紙を何度も見直しながら考え込んでいる。

「それじゃあ、なんでハンドル重いんだ?」

「佐伯、お前、さっき五時間しか寝ていないと言っていたよな?」

「そうだけど、それがどうした?」

「覚えているか。政治経済の佐久間先生」

「佐久間先生? 佐久間、佐久間……ああっ! あの佐久間か!」

 佐久間は俺たちの高校で政治経済を担当していた白髪眼鏡の先生だ。憲法の前文を丸暗記しろと言って、全員に丸暗記させた男だ。今時珍しいほど真面目な男で、宿題もテストも他の先生は市販の問題集を丸写しして作成していたのに、毎日家で一から作っていた変わり者だった。

「佐久間先生、俺たちが卒業する直前に倒れただろ?」

「そうだっけ?」

「お前な。それぐらい覚えておけよ。あの佐久間先生、睡眠不足で過労死したんだよ」

「そうなのか?」

「ああ。あの人、教科書は検閲されているとか言って、いつも自分で作った資料を配って授業していたろ。あれを作るのに睡眠時間を削っていたんだよ」

「ふーん」

 俺は宮下の昔話に全く関心がなかった。佐久間のことなんてどうでもいい。それより俺の車が調子悪い原因を見つけてくれ。

「佐久間先生さ。倒れる直前、腕が動かないって言っていたんだ。腕が重くてチョークを持てないって言っていたんだよな」

 宮下が何を言いたいのか俺にもやっと分かった。俺はスマホを出して、スケジュールを確認すると、明日は会社を休んで病院に行くことを決めた。