鉄仙のショートショート

札幌在住会社員のショートショート置き場です。

あちらのお客様

「また、いらっしゃって下さいね!」

 彼女の笑顔に見送られるのは、これで何度目だろうか? 俺がこの洋食店に通うようになってから半年は経つ。肉がホロホロと崩れ落ちるビーフシチューに、尻尾の先までサクサクなエビフライ、ふわふわのトロトロでこの世のものと思えないオムライス。どれも値段はそれなりに高かったが、それに見合う確かな味が俺を虜にし、看板娘である彼女の笑顔もまた俺を虜にした。おかげで俺は金欠状態に陥っている。彼女に惚れて、毎週金曜の夜に通うことになってしまったからだ。 毎週外食するほど俺の財布は厚くない。それなのに見栄を張って通っている。彼女と仲良くなってデートできると淡い期待を抱いている。それなのに、未だにデートはおろか、まともな会話すらしていない。

「はぁ……」

 思わずため息も出てしまう。進展しない関係による精神的なダメージもそうだが、それよりも現実的な金銭的なダメージが重くのしかかる。このペースでお店に通っていたら、貯金も尽きて、デート代を出す余裕もなくなってしまう。それどころか、お店に通うことすらできなくなってしまう。考えるだけで憂鬱だ。そんなことをあれこれ考えながら俺は駅まで歩いた。

『急募! 手首が柔らかい人!』

 俺の目に変な張り紙が目に入った。手首が柔らかい人? 変な募集もあるものだ。勤務時間は夜九時から十一時とたった二時間のバイトみたいだ。ここなら残業の多い俺でも、仕事終わりで働けそうだ。

 俺は張り紙のある店のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 落ち着いた柔らかい男の声がした。店の中は暗くオレンジ色の照明が最低限の明るさを保っていた。入り口から見て、右手にカウンター席、左手にテーブル席があるバーだった。

「あの……。入り口に貼ってあった募集を見たのですが……」

「手首が柔らかい方ですか?」

 あっ……。忘れていた。そういえば、そんな条件が書いてあったな。

「いや、どうでしょう? 比べたことがないので分からないのですが……」

「ちょっといいですか?」

 カウンター越しに、白髪のマスターが手を伸ばして、俺の手首の柔らかさを確認してきた。

「おおっ、これはなかなか! 是非、うちの店で働いてみませんか?」

「あの、どんな仕事なのですか?」

「バーテンダーです」

「バーテンダー? 二時間だけの?」

「ちょっと特殊なバーテンダーでして……」

「特殊?」

「映画などで『あちらのお客様からです』と言って、グラスをカウンターで滑らせるシーンを見たことはありますか?」

「ありますが……」

「あれです」

「まさか、そのシーンを再現するだけのバーテンダーなのですか?」

「もちろん他の仕事もしてもらいますが、基本的にそれ専門となります。実はうちの店はそのシーンを再現できる店として有名なのですが……。先日、ベテランのものが急に辞めてしまいまして」

「手首が柔らかいのとどういう関係が?」

「グラスを滑らせ過ぎると狙ったお客様の手元で止まりませんし、勢いが足りないと途中で止まってしまいます。もちろん、力加減による勢いのコントロールだけでなく、他のお客様のグラスにぶつけないコントロールも必要となります。それらをこなすのに必要なのが手首のスナップを可能にする手首の柔らかさなのです。ちなみに……」

 その後二時間ほど、俺はカクテルを飲みながら、マスターの『あちらのお客様からです』がいかに素晴らしいかの話を聞くことになった。正直、『あちらのお客様からです』の良さについてはよく理解できなかったが、彼女に会うために金を用意しなければならなかったので、俺はここでバイトをすることにした。

 次の日から、俺の『あちらのお客様からです』の練習が始まった。

 店のカウンターは『あちらのお客様からです』専用の加工がされていた。お客さんから見て手前は普通のカウンターなのだが、奥は滑りやすいよう表面の加工が施されており、さらにワックスも塗ってあった。俺は店が開店する八時になるまで、カウンターをツルツルに磨いてワックスを均一に塗り、水を注いだグラスを数種類用意して練習をした。

 まずはバランスが楽な底が大きく安定しているショットグラスを滑らせる。

 ヅ―。

 滑りが悪い。カウンターにもう少しワックスが必要みたいだ。

 中身の入ったグラスは重く、ワックスを塗ってツルツルに仕上げたカウンターでないと摩擦とグラスの重みで止まったり、途中で倒れたりしてしまうのだ。

 俺はワックスをもう一度塗り直して、もう一度、ショットグラスを滑らせた。

 ツー。

 よし! 今度は調子がいいぞ!

 次は、逆三角形で重心が難しいカクテルグラスだ。

 ツー、コトン。

 グラスがカウンターの途中で引っかかって倒れてしまった。

 カウンターを確認すると少し凹んでいたので、俺は凹んでいる部分をワックスで平らになるように埋める。

 そして、もう一度、カクテルグラスを滑らせた。

 ツー。ガタン。

 今度は滑り過ぎて奥の壁にぶつかってしまった。

「手首のスナップが強すぎますね」

 マスターが身振りをして、コツを教えてくれる。

「こうですか?」

「いえ、こういう感じです」

 グラスを滑らすだけがこんなに面白く熱中できるとは思ってもいなかった。 俺は毎日、開店前に店で練習し、開店後はカウンターの奥でカクテルについて勉強させてもらいながら、マスターの後ろで接客について色々学ばせてもらった。

 そして、一カ月が経った。

「合格です。早速ですが、明日、デビューしましょうか?」

「はい。よろしくお願いします!」

 いよいよ俺は、明日、『あちらのお客様からです』デビューすることになった。

 当日、俺は会社に有休届を出して仕事を休み、店が開く夕方まで自宅で何度も手首のスナップを練習した。店で常連さんがよく頼むカクテルのレシピも復習した。これで今夜のデビューも万全だ。

 俺はいつもより早く店に入って着替え、カウンターの前に立った。しかし、中々、『あちらのお客様からです』の注文が入らない。俺はアルコールの補充をするため店の奥に戻る。

 ゴクリ。

 緊張からか俺は喉が渇いたので水を一杯飲んだ。

「おーい! 出番ですよ!」

 ついに俺がデビューする時が来た。はやる気持ちを抑えて俺はカウンターの前に戻った。

 カウンターに戻ると一人の男が座っており、男は俺の顔を見ると右手を顔の高さまで軽く上げて合図してくれた。

「何にしますか?」

「スクリュードライバーをあの女性に」

 男が目配せした方を見ると、カウンターの端に女が一人で座っていた。俺が店の奥に戻るまでは、あの女はいなかったので、戻っている間に来たのだろう。黒く長い髪で顔は確認できないが雰囲気からも美人であることは分かった。

 俺はタンブラーグラスに氷を入れ、ウォッカとオレンジジュースを注いで軽く混ぜた。スクリュードライバーのカクテル言葉は「あなたに心を奪われた」だ。この男はあの女を射止めるつもりなのだろう。デビュー戦とはいえ、これは絶対に失敗できない。

 俺はグラスを男の前に置く。そして手首のスナップを利かせて、勢いよくカウンターの上を滑らせた。

 ツー。カランカラン。

 無事、俺の滑らせたスクリュードライバーが女の前で止まり、グラスの中でクルクルと氷が揺れている。

「これは?」

 俺は女の前に移動して告げた。

「あちらのお客様からです」

 俺は、目の前で揺れる氷と同じぐらい揺れる動揺を抑えて、女の顔を見ながら冷静に答えた。

 女は照れながらグラスを持って男を見ながら会釈をし、男もまた自らのグラスを持ち上げ会釈を返した。

「一緒にどうですか?」

「いいのですか?」

 女の誘いに男は応えて席を移動した。二人はとても楽しそうに話している。

 俺は彼らに背を向けて泣いた。

「泣いているのですか? 『あちらのお客様からです』に成功したことが、そんなに嬉しかったとは……」

 俺は涙をぬぐいながらマスターに答えた。

「最初は気づかなかったのですが、彼女は俺が惚れて通っていた洋食屋の看板娘さんでした……」

「あちらのお客様が、この前おっしゃっていた女性だったのですね……」

「はい……。マスターすみませんが、少し裏で休んでいいですか?」

「仕方ありませんね。ほんの少しですよ?」

 俺は店の奥に戻り、洗面所で水を思いっきり出して、バシャバシャと勢いよく顔を洗い始めた。

「おーい、お客様がお呼びですよ」

 マスターが通用口のドアを開けて呼ぶので、俺は顔を拭いてすぐに店へと戻った。

「マスター、誰が俺を?」

「はい、こちらをどうぞ」

 そう言ってマスターが差し出したのはモヒートだった。

「これは?」

「こちらのお客様からです」

 マスターが紹介してくれたのは、先程まで他の男と楽しそうに会話をしていたあの看板娘さんだった。あれから数分しか経っていないのに、横にはあの男がいなかった。

「あの男性は?」

「奥さんに呼び出されたと言って帰りました」

「そうですか……それは残念ですね。先程はとても楽しそうでしたのに……」

「えっ? あれはマナーじゃないですか?」

「マナー?」

「お酒を奢って貰ったら、お礼に話し相手をするものですよ?」

「そういうものですか?」

「そういうものです。ほら、今度はあなたが私の話し相手をする番ですよ? マスター、彼を借りてもいいですか?」

「ええ、もちろん」

「ほら、早くこっちに来て下さい」

 俺は言われるまま彼女の隣に座った。

「どうも」

「どうもじゃないです。ここ一か月、あなたがお店に来ないから心配しました。うちの常連さんがあなたをここで見たというから来たのに、あなたはお酒を出したと思ったら、すぐにどこかへ消えちゃうし……」

「すみません。先程の男性と仲が良さそうだったので、つい……」

「もう、あなたはいつもウジウジしてばかり! 今日ぐらいシャッキとしてください。モヒートの意味知っていますよね?」

「意味? 心の渇きを癒して……です」

 彼女が空になったタンブラーグラスを揺らす。

「私、お酒がなくなっちゃったんですけど?」

「何にします?」

「じゃあ、シェリーで」

 

 シェリーの酒言葉「今夜はあなたにすべてを捧げます」 

  

 

(この作品はフィクションであり、 実在する人物、団体等とは一切関係ありません)

 

【2/27、21:28追記】

 小説のオチを大きく変更して付け加えました。少々間延びした感じはありますが、バッドエンドからグッドエンドに変更しました。